「のりたま」ふりかけを白いごはんに散りばめよう

見附市南本町出身の41番小塚和季くん。
第1戦目。君のレオヘの歌舞伎型見栄を張った。左への送り出し、良かったよ。
レオからまた左サイドへコルテース。たまらなく喰い込んで、極限からのゴール前ストレートパス。
それをラファエルが、ゴールに送り込んだ。
苦しく窮屈だったろう。それからも。
小塚和季くん。僕は君の手喰った馴れたような、人を喰ったような、怪しげな送りが好きなんだ。
まるで、今町と中之島の「凧合戦」の絵が口元貫く武者のようで。
風にとび、風に送られる凧綱が、軋り、緩み。それを果敢ない今町と中之島の男衆が土手を走り行く。
喰い会い絡み付く陣絡め男の中の男じゃないか。
今町男歌舞くようなひとり旅。
想いっきり引いたり、ひっぱい足り、ゆるめたり阿吽の呼吸。

小塚和季くん。丸美屋の「のりたま」ふりかけを食べて。

-創業者、丸美屋 阿部末吉氏の決意-抜粋-すぎなみ学倶楽部-http://www.suginamigaku.org/-

「西荻窪」や「久我山」にくらべ、少々知名度が低いかもしれない。そんな松庵に、ふりかけで有名な丸美屋食品工業株式会社の本社がある。

丸美屋の創業者である阿部末吉(すえきち)氏は1902(明治35)年12月、新潟県南蒲原郡今町(現在は見附市)で生まれた。
雑貨商を営む父・佐藤重郎次と母・ふみ、兄2人姉1人を持つ末っ子。
小学校高等科に進む頃にはすでに家業の手伝いに精を出し、商売の感覚『商魂』を自然と身につけるにはふさわしい環境だった。
-(略)-
しかし「いずれは東京で商売を覚えたい」という気持ちが強く、1919(大正8)年17才の時に仕入れをかねて初めて上京。賑やかな東京に衝撃を受けた末吉は、東京に出てみたいという気持ちがいっそう強くなった。周囲の反対もあったがその意志は変わらず、両親の反対を押し切り上京する。
東京・日本橋のメリヤス問屋などで丁稚奉公(でっちぼうこう)をはじめるが、思い描いた理想と現実の違いが大きすぎたのか短期間で帰郷。この上京で学んだことのひとつは「学問や知識の必要性」だった。帰郷した末吉は家業を手伝いながら、再び上京する機会を待った。
-(略)-
1927(昭和2)年、24歳の時に末吉氏は再び上京する。
-(略)-
佐藤末吉から阿部末吉へ
末吉氏は1932(昭和7)年、30歳で阿部育(いく)氏と、見合いで結婚する。育氏は女学校を出たばかりの19歳。
実家は新潟県長岡で100人ほどの従業員を抱えて織物業を営んでおり、育氏は四女一男の次女であった。時代がそうさせたのだろう、阿部家から強く要望され、末吉氏はこの結婚で佐藤から阿部に改姓している。
-(略)-末吉氏1984(昭和59年)逝去-(略)-


見附市南本町出身の41番小塚和季くん。
丸美屋の「のりたま」ふりかけを白いごはんに散りばめよう。
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そして行けよ!!小塚和季くん。
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