父親とは?

矢野貴章選手は、父親と中学三年生の時に、別れたと云う。

病いで亡くなった、その日。家族の嗚咽する日。怯まず「試合」に行ったと云う。

家族の反対を押し切って、矢野貴章は、何処のかたわらで、「父」を偲んで、大粒の涙を流して居たのだろうか。

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ひたすら隠して来た「父」への「愛」。

矢野貴章選手を、応援して行こう。

-中日新聞-
亡き父へ贈り物 アルビレックス新潟・矢野貴章選手

競り合いの強さも持ち味の矢野貴章選手

 矢野貴章選手が亡き父に最高のプレゼントをした。サッカーを教えてくれた父晴康さんは11年前に病気で他界。「試合で活躍することが父への供養。世界に通用する選手になりたい」と走り続けた矢野選手の努力が浜松初のW杯代表に結実した。

 矢野選手は静岡大付属浜松小学校時代、晴康さんからサッカーを学び、ぐんぐん上達していった。そんな指導者でもあった晴康さんが病で亡くなったのは、静大付属浜松中学校3年だった1999年6月。矢野選手はこのとき、W杯出場を誓った。

 柏レイソルから新潟に移籍後、レギュラーに定着。日本代表にも選出されるようになり、うっすらと道が見えてきた。最大の武器はヘディングと、労を惜しまない運動量。矢野選手の母明美さん(59)=浜松市在住=は「代表初選出には涙が出てきました。でも、あしたから、日の丸を背負った戦いが始まります。厳しい戦いを乗り越えてほしい」と期待を寄せた。

 母校の浜名高校(浜松市浜北区)では10日、恩師の池谷守之・サッカー部監督(49)がメンバー発表のテレビ中継を見守った。「微妙なラインだったので、最後の最後に『矢野』と聞いた瞬間、叫んでしまった」。矢野選手からは「(選ばれて)ほっとしました」と電話を受けたという。

 中学生までサイドバックだった矢野選手をFWにコンバートさせ、現在の活躍を導いた。「1年生のときから率先して3年生とプレーするなど、自分が成長するためにどうしたらいいかを知っていた。サッカーでも勉強でも他の生徒の模範だった」と振り返る。

 「高校時代から、身体能力の高さとフォワードとしての守備力は素晴らしいものがあった。本大会では途中出場の可能性が高いが、与えられた仕事をしっかりこなしてほしい」と語った。
-2010/5/11-

矢野貴章選手の心を追いかけて。

かつての戦争のことでは無くて。

スポーツの中で

かけがいのない「父」の歴史の「戦士」を敬う。

そして、僕がここで生きて居ると云うことを。

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